補遺1 組谷さんからの手紙への返信



組谷さん(ご存知の方もいらっしゃるとは思いますが、氏は現役の月刊誌記者です)より長文かつ丁寧なお便りを頂きました。
氏のメール文面から適宜引用しつつ、小生が返信し、今回の『評論家入門』にかんする一連の雑記の補遺とさせていただきます。
ごらん頂いた皆様、コメント、メールをを下さった皆様、ありがとうございました。





いや,なんかすっごい丁寧に書いていて,アマゾンの批評なんぞよりもずっとおもしろかったです。
件のレトリックについてですが,ウツボ君の書いていることは, なんか矛盾しているように感じられてよく理解できなかったです。


ありがとうございます。お褒め頂きうれしいです。丁寧に書いたのは、偉そうに書き飛ばすのは嫌だったし、個人的な性質として
できなかったからでもありますが(頭の回転のよさそうな文章を書いてみたい・笑)、周りの人に読んでもらえない文章を書くのは
不毛ですから、むしろ、その点に気をつけました。それでも、時には軽率なコメントが来るので、無意味にカッカとしました。
敵はむしろ己が内に居たというか、自分の感情そのもの。そんな感じです。


レトリックについては、



(筆者が)「あくまでも、論争を通じて負った精神的なダメージを、薬で解決することを勧めると(書いている)のは
「レトリック」であって、本音は、(自注 論争に因るものに限らず一般的に)精神的に苦しいときには、その苦しみを薬で解決していいと
暗に仄めかしているところにあるのだ、ということを仰っているのですか?


とちょっと意味不明のことを書いていますね。「レトリック」という片仮名に動揺したのだと思います(苦笑)。



まあ,あれです,僕の言うレトリックとは言葉通り修辞法です。 文体の一部と考えても良いです。
いささか極論めいた物言いや,高圧的な言い方は, 小谷野氏の文体なんじゃないかな,そう思った次第です。
該当箇所を読んだだけでは,実のところよくわからないのですが, あそこだけだと,単なる文体に感じました。


(今回の騒動は)ドリフ(の番組)でケーキ投げつけているのを見て,(おもしろい、と笑っている人と)食べ物を粗末にして!と
怒る人がいた,そんな感じかな。 どっちも受け取り方次第というか。 問題なのは,それがおもしろいかおもしろくないかで,
おもしろいと感じない人の中には,不快感を伴う人もいる,そう言うことでしょうね。表現手法をまじめに受け取って不快感を催す人がいた,ということ。


ああ、レトリックは、文筆家の文章一般に感じられる魅力でもあるし、それがまさに小谷野氏の著作の魅力なんですが、
「レトリック」そのものにその作者の人格的なものを見出し、気にしてしまう人間は、不快に感じるかもしれません。
修辞は読者を煙に巻く方法のひとつですから、作者自身と密接な関係がないとはいえないですし、極端な話、あらゆる文章は
そのせいもあって常に「誤読」される可能性を持っているといってもいいですよね。
ちょっと話が逸れそうなので、この辺にしておきます。



当の向精神薬の行に関しては、章題や書き出しからして、僕は自嘲的でシニカルな冗談を読み取れました。
小谷野氏が向精神薬を取り巻く問題点を認識しているとは思えませんが、そこまで責任を負うような記述ではないと彼は考えていることでしょう。
つまり、これは単なるレトリックであり、彼一流の言い回しにすぎないのでしょう。
「〜でしょう」という語尾になっていて、断定が出来ないのは、当該箇所の引用だけでは本当の意味合いが解らないということもありますが、
彼の意図とは違う読み取り方をする人がいる可能性があるからです(現実にいたわけですから蓋然性と言い換えられるでしょう)。
違う読み取り方をした人がそれを不快に思う可能性もあるわけです。


上段でわたしが述べている「誤読」の可能性というのは、まさに、この組谷さんのお書きになっていることそのものですね。



まあ,どうも「2ちゃんねらーは全員バカ」みたいな発言をしたり, 小谷野氏は愛想の良い人ではないようで。
実際のやり取りも、本の内容もわからないまま発言するのは危険でもあるけれど、感情的にならずに概観することができる、
と思って発言させていただくと,彼は自作に対して評論されるのが嫌い,あるいは,的はずれな評論が嫌いなのでしょう。


小谷野氏の著書の内容を,アマゾンの書評そのほかから推察するに,

  • 批評にはある程度のレベルが求められる
  • そのレベルに達していない批評が多すぎる



という内容ではないかと思います。もうひとつ、穿った見方をするなら,

  • 俺の本を批評しやがるんじゃねえ



なんていうことも読み取れそうな気もします。


そういう内容だけに、本の本質から逸れた些末を感想として述べられたので,著作の本質的な部分よりは些末な部分への指摘
(と少なくとも氏は考えているでしょう)が,彼には腹が立ったという感じでしょうか。19歳はものがわからんというのは、
明らかに「おまえの母ちゃんでべそ」の彼一流の表現か、さもなければ育ちが悪いか、実は彼は19歳であるかのいずれかではないかと
推察します。本気で考えているとは思えません。他人からとやかく言われることが嫌で嫌でたまらなくて,批評家なんかいなくなあれと
あの本を書いた,というのは穿ちすぎか(笑)



ははは。愛想の悪さ、つまり不器用な表現そのものも、小谷野氏の著作の魅力であるわけで、組谷さんのご指摘にかんしては、わたしもおおむね同意します。
「的はずれな評論が嫌い」というのは、今回のタテイシさんの文章に氏が感じられた不快感そのものだと思います。
「的はずれ」である「稚拙」な「感想」を読んで、感情的に反発されたのだと思います。
「19歳・・・」という記述にかんしては、あえてこの一連の雑記の中でも言及するのを避けてきましたが、言うまでもなく小生も
ナンセンスだと思っていて、それについては非難されて然るべきです。ただ、彼女がその点については自身の日記で十分非難
していると感じたので、沈黙を守りました。


「批評家なんかいなくなあれ」という点に関してですが、氏はこのように発言されています。



活字の世界へ浮上せよ!


いまインターネットのホームページなるものを覗くと、まあ実に多くの人が、たくさんの本を読んではその感想文を
日記のようなものに書きつけている。実のところ、レヴェルの高いものは高いが、低いものは恐ろしく低レヴェルで、
読んでいて不快になることも少なくない。おそらく彼らは、自分の書いたものを人に読んでほしいのだろう。
ホームページに目を止めた編集者から連絡があるのを待っているのかもしれない。それなら、私はこうした人々に、
やはり活字の世界へ浮上することを勧めたいのである。


小谷野敦『評論家入門』(平凡社新書、18ページ)


今回の騒動はまさに小谷野氏の一番の癇にさわったのだ、ということをこの箇所を読んで改めて感じています。
「批評家なんかいなくなあれ」と氏は思ってらっしゃらないと思いますが、「恐ろしく低レヴェル」な「感想文」など書くな、
とは思ってらっしゃるでしょうね。というか、これでは組谷さんへの恐ろしく本気なレスになってしまいますね。
今回一番クリティカルなお便りを頂いたので、興奮しているようです・・・。



BROWN氏が述べるような、小谷野氏はそんなムキにならなくても……と言う話は、全くその通りではあるのですが、
現実には、自分の著作をけなされて怒り出す著者は多いです。ええ、よーく解ります。そういうライターさんと仕事したりするので。
ですが、発展的な議論を放棄するかのような、挑発的な発言をする小谷野氏もまた自著の論旨に背くような行動を行なっているわけです(反論もまた批評の一つでしょう)。
その点、彼は自己矛盾を恥じるべきではあるでしょう。とはいえ、まあ学者というのはそういう人種なんです。
彼らは学問というグローブをはめてリングに上がる拳闘家なのですから。
容認しなさいとは言う気もないですが、外れ科目を履修してしまったとおもって、ここは単位を落としてみても良いのではないでしょうか。


ははは。その氏の「自己矛盾」まで面白い、と言い出したりすると、どうなんでしょうね。なんだか自分がものすごく不遜な
人間に思えてきます。が、本を読むことが好きな人間というのは、と、主語を一般化するのはやめておきますが、少なくとも
わたしには、そういう他人の「自己矛盾」は楽しんでしまう性悪な部分があります。自分のこととなると落ち着きがなくなりますね。
青い顔をして唸っているような気がするんですけど。


「批評」を志向する「学問」に携わっているのであれば、その方法にかかわらず、自分の説こそが「正しい」と信じ、
中には「勝つ!」と常に気炎を上げている人間がいることは想像に難くありません。というか小谷野氏はまさにそのひとりですね。



「19歳にまともな批判が出来るわけない」という判断を述べることと
「責任もって作品を発表している人」が「そんな事言わない」というのは全く別問題です。


と、わたしは書いて、氏の自己矛盾を奇妙でないと感じていたのですが、この自分自身の視点の偏りを組谷さんのご指摘により
ようやく理解することができました(まだ落ち着きが悪いですが・・・どうも愚鈍なようです)。今回、内容豊富で、明快な
文脈のお便りをいただけたことに感謝しております。組谷さんのお便りによって、わたしは知恵は足りませんが、テクストを読むための、
「批評」の意味、意義といったあたりまで、ぼんやりと考えが及び、「愉快」な機会を得ることができました。非常感謝。