2-6 性交相手がいないという問題



筆者はまず都市の「吉原のような格式の高い遊里では、初回、裏、馴染みという形で、客は三度通って初めて女郎と枕を交わすことができた」(63)という事実から、「徳川期の遊里では、擬似的な「恋愛」が行われていた」(同)とする。これは「明治初期、娼妓解放令が出たり、廃娼運動が起こったりして、西洋文化の影響で「金で女を買うこと」が恥ずべきことだという思想が主に若い知識人のあいだに広が」(同)ったため、明治中期から行われなくなったという。次に「農村では、若衆宿や娘宿のような制度があり、「夜這い」あったりして、十五、六歳で性の営みを覚えるのが普通であった」(同)という言説を紹介した後、「ここで私が確認しておきたいのは、徳川期の遊里に「擬似恋愛」の制度があったということで、要するに、単なるセックスの道具としての女と交わるのは、下手なオナニーより虚し」く、筆者は「性欲より先に恋愛欲(「人格的な交わりを経たのちに交合したい」という欲)がある、と考えている」(64)と述べている。またその定義する「恋愛欲」に基づいて、現代のソープランドと比べて「人権の観点からはまし」だが「男のための文化装置としては徳川期の遊里のほうが勝っているのは否定できない」(同)と判断している。