二葉亭四迷 / 浮雲 (岩波文庫)



二葉亭四迷と聞けば、誰しも「ああ」と思うだろう。学校でむかし文学史の時間にやったなあ、言文一致体だっけ。文学史ってつまんなかったよなあ。もしあなたが文学史を好きだったら、同時に「山田美妙」の名前も思い出すだろう。そんな感じ。


二葉亭の『浮雲』を読んだ。なかなかおもしろいのだ。お互いにそう悪く思っていない文三とお勢の会話を抜いてみよう。



「ですがネ、教育のない者ばかりを責めるわけにもいけませんヨネー。私の朋友なんぞは、教育のあると言うほどありゃしませんがネ、それでもマア普通の教育はうけているんですよ。それでいてあなた、西洋主義のわかるものは、二十五人のうちにたった四人(よつたり)しかないの。その四人もネ、塾にいるうちだけで、外(ほか)へ出てからはネ、口ほどにもなく両親に圧制せられて、みんなお嫁にいッたりお婿を取ッたりしてしまいましたの。だから今までこんな事を言ッてるものは私ばッかりだとおもうと、何だか心細くッて心細くッてなりません。でしたがネ、このごろはあなたという親友ができたから、アノー大変気丈夫になりましたわ。」
文三はチョイと一礼して

「お世辞にもしろうれしい。」

「アラお世辞じゃアありませんよ、ほんとうですよ。」

「ほんとうならなおうれしいが、しかし私にゃアあなたと親友の交際は到底できない。」

「オヤなぜですエ。なぜ親友の交際ができませんエ。」

「なぜといえば、私にはあなたがわからず、またあなたには私がわからないから、どうも親友の交際は・・・・・・」

「そうですか。それでも私にはあなたはよくわかッているつもりですよ。あなたの学識があッて、品行が方正で、親に孝行で・・・・・・」

「だからあなたには私がわからないというのです。あなたは私を親に孝行だとおっしゃるけれども、孝行じゃアありません。私には・・・・・・親より・・・・・・大切な者があります・・・・・・」

トどもりながら言ッて文三は差しうつ向いてしまう。お勢は不思議そうに文三の容子(ようす)をながめながら

「親より大切な者・・・・・・親より・・・・・・大切な・・・・・・者・・・・・・親より大切な者は私にもありますワ。」

文三はうなだれた頸(くび)を振り揚げて

「エ、あなたにもありますと。」

「ハアありますワ。」

「だ・・・・・だれが。」

「人じゃアないの、アノ真理。」

「真理。」

文三はぶるぶると胴震いをして唇を食いしめたまましばらく無言(だんまり)、ややあッてにわかに喟然(きぜん)として嘆息して

「アアあなたは清浄なものだ潔白なものだ・・・・・・親より大切なものは真理・・・・・・アア潔白なものだ・・・・・・

しかし感情という者は実に妙なものだナ、人を愚にしたり、人を泣かせたり笑わせたり、人をあえだりもんだりして玩弄する。玩弄されるとうすうす気が付きながらそれを制することができない。アア自分ながら・・・・・・」

トすこし考えて、ややありて熱気(やっき)となり

「ダガ思い切れない・・・・・・どうあッても思い切れない・・・・・・お勢さん、あなたは御自分が潔白だからこんな事を言ッてもおわかりがないかもしれんが、私には真理よりか・・・・・・真理よりか大切な者があります。去年の暮れからまる半歳、その者のために感情を支配せられて、寝てもさめても忘れらればこそ、死ぬよりつらいおもいをしていても、先ではすこしもくんでくれない。むしろつれなくされたならば、また思い切りようもあろうけれども・・・・・・」
トすこし声をかすませて

「なまじい力におもうの親友だのといわれて見れば私は・・・・・どうも・・・・・・どうあッても思い・・・・・・」

「アラ月が・・・・・・まるで竹の中から出るようですよ、ちょっとごらんなさいヨ。」



岩波文庫、p.27〜29より。1941年1刷1987年48刷)


まあ、こんな塩梅でわたしは「人じゃアないの、アノ真理。」で、笑った。しかも電車の中で。加えて、「アラ月が・・・」はないだろう、君たち!


浮雲』とは明治のさえない男が片恋のあまり延々と愚図愚図している話なのである。まさに漢字で「愚図愚図」と表記するにふさわしい愚図愚図っぷりで、後半に進むにつれてもうその愚図愚図っぷりに、いらいらを苦笑交じりで楽しめるというような、愚図男のための小説なのである。というわけで他にも引用したい部分はあるのだが、とにかく好きな女の子に愚図愚図して恋情を告白できなかったような経験を持つ男には一度読んでみてほしい一冊である。これだけ読みやすくて、まあ、二葉亭というひとはとんでもない才能だったのだなあ、と思うことしきりである(新仮名版のせいもあるか)。


これを読んだあと、中村光夫二葉亭四迷伝』(講談社文藝文庫)を読むといいらしい。機会を見て読んでみたい。それからわたしとしては、関川夏央二葉亭四迷の明治四十一年』(文春文庫)も同時にお勧めしておきたい。『浮雲』は明治の文学だと軽んじて読まぬは損である。内海文三は現代にも通用する臆病で軟弱で世間を知らない青年理想家として生きているからである。


評価:★★★★