タンゴは儀式である



K ぼくは2002年に不安神経症を発症しまして、ラカン派の精神分析医にかかりまして、分析治療を受けました。彼がラカン派の医師だからといって、その治療がラカン派的なものかといったら、そうではなくて、フロイド的なものがベーシックにあったと思うんですけれど。


ぼくはそれまでいろいろなバンドを作ったり解散したりしてきました。そこでは自分の履歴を公開するのは堅く禁じていたんですけれど、治療を経て、抑圧してきた自己の履歴を開陳するのがソロアルバムであるという位置づけです。これは、自己の「倫理」を破っているわけで、まさに「不倫」なわけですね。これは、ほんとうに雑駁に言えば、SM関係みたいなもので。そうして今までは嫌でもあった、自分の故郷がエキゾティックに感じられるようになってきたところはありますね。


I さきほど、菊地さんが港町の出身だと仰っていましたけど、実はわたしも港町の出身なんです。18まで秋田に住んでまして、今は秋田市になっているんですけど、土崎という港町ですね。港に立派な蔵が沢山立っていたりする、そういう風景の中で育ちました。


K えっ、それは初めて聞いたな!伊藤先生、秋田のご出身なんですか?ぼくはもう、てっきりとあれですね、生粋の、根っからの東京の人かと。そうだな、墨田区出身とか、そんな感じじゃないかと。なぜ墨田区かと言われると、根拠は無いんですが(笑)。しかも港町ですか。


I そうです。当時、ジャズをもう聴いていましたけど、こうラジオをチューニングしていてですね、今のAFN(FEN:米軍放送)からちょっとずらすと、北朝鮮の日本語宣伝放送が聞こえてくると(笑)。それを笑いながら聴いている、そういう環境で暮らしていたわけですね。わたしたちの時代はそういうのが、ありましたよね。


K そうですね。


I で、わたしが高校生当時、帰還運動というのがあって、クラスメイトのうち10人ほどが(北へ)帰っていったんですけど、そのときは非常に複雑な思いがしました。


K そうですか。


I それで、タンゴというのは海が作る音楽ですね。まだ100年くらいの歴史しかないんですけど、港町の音楽です。19世紀末、アルゼンチンで生まれて、港町の娼館で流れていました。人間のセクシャルな感覚を高める音楽だともいわれています。


K そうです。都市の音楽ですね。ジャズと同じ。


I 映画の世界で最もタンゴを良く使っていた監督というのが、ベルナルト・ベルトリッチです。彼は1972〜3年ころまで非常にタンゴをよく使っていた。他にも『ジャスト・ア・ジゴロ』だとか音楽にタンゴを使っている映画というのは沢山あるんですが。


K ありますね。


I わたしのベルトリッチの一番好きな作品は『暗殺の森』ですね、他にも『暗殺のオペラ』『革命前夜』とありますけど、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』ではマーロン・ブランドのセリフに「タンゴは儀式である」というのが出てくるんですね。この『ラスト・タンゴ・イン・パリ』がどういう映画であるかということを簡単に説明しますと、マーロン・ブランド演じる妻が自殺した45歳のアメリカ人の男が、パリにやってきて、そこで出会ったマリア・シュナイダー演じる20歳の女優志望の女と、特に何をするというでもなく延々とセックスしているという映画ですが、ひじょうに美しいと思います。で、映像出るかな、このふたりが映画の終わりのほうで巨大なドームをもつダンスホールで踊る、というかじゃれあっているシーンがあるんですが、そこをちょっと見てみましょう。


 (じゃれあっている画像が見つかりませんでした;)


I ここで、菊地さんにお訊きしたいのですが、21世紀に入って、これはわたしだけなのかもしれないと、最初は思ったんですが、時代が深いメランコリーに襲われています。こういうときに、敢えて今、タンゴをバリバリにやる理由というのはなんですか?『最後にパリでタンゴを踊る』ことについては考えてらっしゃいました?


K そうですね。タンゴにはヒールのピンだけで踊る、というほかの世界中のどんな舞踏にもない、踊り方があるんですが、それはこう、女性の人が体をぐっと傾斜させまして、それを男が支えて、ハイヒールのかかとの部分だけで、くるーーっとゆっくり回るという。タンゴというダンスは「足元を見ろ」ということですね。で、ぼくはこのムーブが、人生における摩滅を象徴しているんではないかと、考えました。


K ベルトリッチという監督は、ある時期まで一貫して「生きていくことが摩滅していくこと」であると、それを退廃的に、官能的に描くことがひじょうに上手い作家であったと思うのですが、わたしも、磨り減っていく生を、メランコリーを「よじる」音楽が「タンゴ」であると考えています。そういえば、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』の音楽はアルゼンチン人が担当していましたね。


I ガトー・バルビエリですね。『ラスト・タンゴ・イン・パリ』のテーマ曲は、コンチネンタル・タンゴ、この場合のコンチネンタルというのは、欧州大陸ということですが、ユーロ・タンゴですね。ヨーロッパ風のタンゴとして作曲されていますが、この二人の踊っているシーンで流れているものは、アルゼンチン風にアレンジされていますね。