対談:南米の欧州憧憬



伊藤俊治(以下I) このジャングルの奥にオペラハウスを作る、という壮大な夢に挑んだフィツカラルドという男の物語ですが、今日は映像を用意してますので、今(スクリーンに)かかっているのはビデオの映像ですけれども、DVDをかけてもらえるかな。えーとこの映像を観ながら、少し話をしたいんですけど、ここ、川を下るシーンでですね、原住民の太鼓、これは威嚇の太鼓ですね。この原住民の太鼓に、蓄音機で音楽をかけて対抗しようとする(笑)。





K この蓄音機のあさがおの部分が、これは、大砲というか、鉄砲というか、銃器のかたちをしていますものね。これはまさに音楽による戦争というか。


I そうですね。この『フィツカラルド』の舞台は今から、100年ほど前、1900年前後の話なんですけれども、ブラジルのマナウスというところで。菊地さんの先ほどのお話にもありましたけど、ここで起きたゴム景気というのは1910年ころには終わってしまいます。当時彼らは本当に大儲けしたわけですね。


K アマゾナス劇場の中の大理石や絨毯、装飾品、そういったものも全部フランスから運んだようですね。


I そう、当時のブラジルの金持ちたちは、アマゾンの川の水は汚れて腐っていて汚いと、心も体もヨーロッパの水で洗い流したい、というような強烈な想いがあったようで、洗濯物を船便でリスボンまで送っていたそうです。で、この、彼らは何をしたかったかというと、アマゾンの中にヨーロッパを呼び込む、呼び出すということですね。


K ヨーロッパを呼び出す、呼び寄せようとするのはこれはブエノスアイレスでも同じで。


I なんでも、今でもブエノスアイレスには現役のオペラ劇場が7つもあるという。


k そうですね。ブエノスアイレスは未だに98パーセントが白人で、その他2パーセントほどが有色人種という、そういう街です。ぼくがアルゼンチンでコロン劇場を訊ねたときも、偶然ニーノ・ロータのオペラというこれが、とんでもなくつまらない代物だったんですけど、それがかかっていて。でまあ、実際、劇場の中で使われる言語は80パーセントがイタリア語なんですね。で、ぼくはスペイン語はまったくわからないのだけれど、イタリア語は、ほんの少し分かるので、劇場に入ったとたんに「あれ?なんだろう」と思いましたね。それで、今、タクシーに乗ったりしてもあるでしょう、「ホリエモン、なんとか買収」(笑)っていうニュースが流れていく電光掲示板。あれが、劇場にもありまして、今上演しているイタリアの芝居にですね、字幕がスペイン語でつくわけです。それがなんとも言えない感じがしましたね。シュルレアリスティックというか。北米の脱構築をやっているな、という感じですね。


ぼくが(ブエノスアイレスに)行ったころ、当時、北米では狂牛病BSEというのがありまして、そんな状況で、アルゼンチンは世界で一番牛肉の消費量が多い国なんですね。で、北米の牛に対して、ブーツの厚底のようなアルゼンチン牛を猛烈に食べるひとたちが沢山いるわけです。そうやって、一方ではステーキを食べて、で、心はイタリアに向かっているというね。南米の欧州憧憬ですね。

エキゾティシズムの語り方



K エキゾティシズムやエロティシズムというのは、今、非常に使いにくいことばですね。バイアスがかかっているというか。とっても使いやすい時期というのもあったわけですけど。


I そうですね。20世紀のモダニズムを推進したエンジンとして、「他者性」の発見ということがあるわけです。「他者」の問題ですね。エキゾティシズムというのは、これは「他者」としての「場所」ですね。エロティシズム、これは「他者」としての「肉体」。この他に、「自意識」にたいする「他者」としての「無意識」というのがあるんですね。エキゾティシズムにしても、エロティシズムにしても、日常の中にある特殊な現実感を浮き上がらせる方法だと、言えると思うんですが。


K そうですね。そこにはメディアの問題というのもあると思います。ワールドスタンダードを目指そうとするアメリカの文化侵略というのがあってですね、ブエノスアイレスには「ウォルト・ディズニー専門館」という映画館がありまして、そこは今閉鎖されて1階がバーガーキングになっているんですが、南米におけるアメリカ文化の残滓ですね。その写真をアルバムのジャケットに使おうかとも思ったんですけど、許可が下りなかったですね(苦笑)。

妄想と創作



I 菊地さんの『南米のエリザベス・テイラー』を聴かせて頂きまして、この中に凄く好きな曲もありまして、ええとルペ・ベレスの...。


K 「ルペ・ベレスの葬儀」ですね。


I この人(ルペ・ベレス)も、いっとき大変人気のある女優で、晩年すごく不幸な死に方をしたひとですけれども。


K そうですね。


I 『南米のエリザベス・テイラー』というタイトルはどうやってお付けになったんですか。


K ええと、これはね、50年代、アメリカの映画会社がエリザベス・テイラーという、この美貌の女優を世界に売り出そうとしていたときに、世界中に「どこどこのエリザベス・テイラー」と呼ばれる女優があったであろうという。だから北京のエリザベス・テイラー、日本のエリザベス・テイラー、アフリカのエリザベス・テイラーと呼ばれる女優がいたであろうという、妄想なんですね。


ぼくは今回アルゼンチンに取材に行くことが決まって、地球儀を3つ買ったんですよね。で、そのうちのひとつはスポンジで出来ていて、針をこう、ブスッと突き刺すことが出来るタイプのものなんですけど、そのブスブス突き刺すのがおもしろくていろいろ遊んでいました。で、日本の地球の反対側にはブラジルがある、ってよく言うでしょう?でも、実際は違います。東京からブスッと刺して突き抜けると、アルゼンチン海盆に出るんですね。海の中です。で、ニアピンの都市ということでは、ブエノスアイレスがあると。


ちなみに北京からブスッとやるとブエノスアイレスに出ます。ウォン・カーワァイ(王家衛)という監督が『ブエノスアイレス』という映画を撮っていますけど、もしかすると「北京から地球上でもっとも遠い場所」がブエノスアイレスということで、インスピレーションを受けたのかもしれないですね。これは、もちろん、ぼくの想像ですけど(笑)。で、アメリカ大陸、ワシントンもニューヨークもシカゴもその裏には何もないですね。ためしにモスクワからも刺してみたんだけど、海に出ます。つまり、地球上でもっとも遠い場所が海であると、もっとも遠い場所を持たない二つの国による対立が「冷戦」ではなかったのかと(笑)。これはまあ、地政学的妄想とでもいうものですけれどね。


I いま、「妄想」ということばがでましたけど、菊地さんが創作においての妄想についてどう考えていらっしゃるか、というところをお訊きしたいんですけれども。


K 伊藤先生は、70年代、ニューヨークのジャズクラブによくいらっしゃったということを、先ほどお伺いしたんですけれども、そのあと80年代のニューヨークで、マーク・リボーに代表されるような「フェイク・ラテン」というのがはやりました。スノビッシュなファッションとしてニューヨークで持て囃されたわけですね。フェイク、というとき、ジャズでも、ロックでもなくて、なぜか「ラテン」なんですね。


ぼくにとってエキゾティシズムを支えているものというのは、幼児期の記憶ですね。ぼくは1963年の生まれなんですけど、7歳までは60年代だったわけです。家は場末の港町で水商売をやってまして、小さいころに、向かいにあるストリップ小屋のストリッパーにお昼を届けたりしていた。そういう歓楽街の記憶がとてもエキゾティックなわけですね。それは一時期嫌なものでもあったわけだけれど、今となってはとってもエキゾティック。遠い「他者」なんですね。5歳くらいの子供が出前に行く距離感、それがすごく遠い。


この間、「情熱大陸」というテレビ番組の取材で、本当に久しぶりに生まれ故郷の銚子に行ってきたんですけれど、当時あった歓楽街はすでに完全に失われていました。そうすると、自分の中にあるイメージを妄想化していくしかないんですね。幼少期の記憶としての「銚子」と、ポストコロニアリズム的視点から見ている「ブエノスアイレス」。この二者が交錯したところに、ぼくのエキゾティシズム、物を作るときの妄想がありますね。

(第3回につづく)



情熱大陸(東京放送)



菊地成孔出演回。センチメンタルでした。しかも短かった。30分でまとめるのは大変だな、と思いました。なんかいろいろ(講師業とか、音楽活動とか)やってる「忙しい人」っていうくらいの印象だったなあ。東大の講義の映像とか、歌舞伎町の菊地邸の映像が観れたのは楽しかったです。あんな狭いところで日記更新してるんだ!とか。そういう、驚きですね。ああ、あと菊地さんはメガネかけていたほうが素敵です。メガネがない顔はなんだかとても無防備な気がする。