第3章 トリスタン・ツァラについて 3-3 ツァラの作品



 さて、チューリヒでのバルとの出会いや、彼の詩作の変遷を差し置いて、ツァラの人生において最も注目したいのは、1921年のバレス裁判の記録である。これは、文学的/政治的転向を果たした作家モーリス・バレスを、ブルジョア的、旧体制的、権力的な仮想敵として象徴的に弾劾した、デモンストレーションであり、ツァラの証言が彼の発話に対する韜晦と屈折、そして政治的スタンスを極めて豊かに示している。





 問-あなたが決して社会的な次元にたたないのならば一体それらはなんの価値があるのですか?
 答-社会的次元とはあなたにとって政府、国、人民、それとも軍隊ですか?そうであれば、私自身が政府、国、人民、そして軍隊そのものであるので私の証言はあなたを大いに喜ばせることでしょう。


ユリイカ』(特集 ダダ・シュルレアリスム)p.222 青土社、1981年5月号




 浜田明は次のように指摘している。





 ツァラの思想についていえば、彼はけっきょく個人の立場を最後まで譲らなかったといえる。思想にたいしてと同様自己の人間に対しても誠実な態度を持ち続けたのである。ダダの運動においてあるいはそれに続くシュールレアリスムの活動において、ツァラはつねに主導的役割を果たしたけれども、けっしてそれを文学的野心に結びつけることはなかった。彼にはブルトンのようなよい意味でも悪い意味でも政治的手腕がなかったのである。


ルネ=ラコート篇『ツァラ詩集』p.294 浜田明訳、思潮社、1981年




 前節でも述べたように、ツァラのダンディなふるまい(それは浮世離れしているといっても良い)は尋常でなく、ダダという「運動」においても、あくまでも彼の動機は「なにかをしつづけているのは、それがたのしいから、というよりむしろ、僕に活動の欲求があってそれを四方八方に費やさなければならないからである」(前掲『ダダ宣言』p.129)ということだ。ツァラ「個人」から離れたところに、まず「ダダ」は無く、それが皆にもあるべきだと彼は言う。





 本当を言えば、真のダダたちはつねにダダから離別していた。ダダがまだたいせつで、そこから鳴物入りで離れることのできぬ人びとは、個人的広告の欲求にかられて行動していたにすぎない。これは贋金つくりたちがいつでも、精神の最も純粋かつ明晰な蛆のように忍びこんでくることの証左であった。


トリスタン・ツァラ『ダダ宣言』p.129 小海永二、鈴村和成訳、竹内書店、1970年



 





 問-はっきりいってあなたは論理というものをどのように考えているのですか?
 答-論理とは思考の動かざる骸骨です。論理は人間という名の汚い幻想を特徴づけるもっとも小さな才覚による約束事なのです。つまり論理などは存在しないのです。論理などというものは小バレスどもが代議士の議席を手に入れるため利用するものです。


ユリイカ』(特集 ダダ・シュルレアリスム)p.224 青土社、1981年5月号




 実は、「代議士」が反語的に象徴する人間の持つ矛盾や、混乱、前言撤回こそが「ダダ」である、という判断がこの発言には読み取ることができる。おおよそ「正しい」論理そのものが、現実の世界ではあまり役立たない、存在し得ないといった確信。実際問題、第1章で「戦争」の構造における、字義通りの法外さを検討したが、ツァラの誠実さは、「バレス裁判」におけるパフォーマンスであることを差し引いても、ときに愚鈍さを感じさせるほどに無防備であり、彼はまたこうも言うに違いない。「ダダはなにもいみしない、という命題は真であると信じるが、ときにそれに向き合うことすら気だるい」と。彼に触れることによって、わたしたちはそう感じざるを得ない。
 彼自身の「不真面目さ」に対する「真面目さ」。彼じしんの矛盾や混乱、いい加減さに向き合う姿勢と同様の姿勢で、ツァラは他者にも向き合ったり、向き合わなかったりするのだ。彼の取り繕いの無さに、われわれは、一定の清涼を感じてしまうといっても過言ではない。
 しかし、ひとの判断は常に迷いの中にあり、生きていく上でひとがしばしば変節することは疑いようが無いものである。にもかかわらず、彼があえてこのように振舞ったのはなぜだろうか、と疑問は尽きない。この「生真面目さ」はどこから来たのか。「戦争」といった強大な世界の動きもそうであるし、要は自己本位が、すべての人間を規定しており、それは誰しも否定することができない。仮に「変節しない」という高尚な「意思」があったとして、それは彼の「欲望」であるとみなされる、という確信に基づいた批評精神による振る舞いであろうか。あるいはその若く猛った己が精神に酔っての振る舞いであろうか。


 ツァラチューリヒにおける態度を検討するにつれて、わたしはひとつの話を思い出すことになった。それは1947年10月に遵法精神を貫徹し餓死を遂げた、山口良忠判事の逸話である。
 当時、日本国内は敗戦後の混乱で食糧の配給が思うように行かず、ひとびとはいわゆる闇市で非正規の食料を購入して生き延びていた。ところが、法律家は立場上、闇市が公然と存在することを「認める」わけにはいかない。山口判事は、東京地方裁判所小法廷を担当しており、そこで裁かれる犯罪の多くは、闇取引にかんするものであった。ある72歳の老婆(出征した息子が帰国せず、嫁は空襲で死亡、残った孫二人に食べさせるために、闇市で食糧を買っているところを逮捕された)に有罪判決を下さざるを得なかったのだが、判事はその判決の後、闇市で買った食糧を一切口にせず、自宅で栄養失調のため衰弱して死亡した。闇取引を禁じた食料統制法は、当時きわめて実効性に乏しい法律であったが、彼は己が死を以って、法に従ったのである。
 ツァラは「人生なんて洒落だ」と謳い、一見山口判事とは正反対の人間に思える。少なくとも、ツァラにおいては、「ダダ」という法に殉ずるなどということは毛頭考えられない。彼は、山口と比べるとずっと足取りは軽い。ただ、思慮深く、人間の深奥が見えているにもかかわらず、あくまでも自分の信念を貫き通すといった点で、ふたりの「誠実」さ(皮肉屋はそれを「愚鈍」さ「愚直」さと呼ぶだろう)の構造は似ている。





 問-(「四六時中自らを判断し自分を卑小でうんざりさせる人間だと思っています。つまり、モーリスのたぐいのものです。もっとも少しはましでしょうが。」というツァラの発言を受けて)その観点はあなたを寛容へ導くものではないですか?
 答-寛容さは眠気であり、愉快なことは残酷なものです。私はいいました。私は紛糾させる、私は単純化する。私は感情的だ、と。私はむろんすべてを許してしまいます。しかし時々どうでも良いと思うのです。まったく小モーリスどもの喉を締めたくなります。


ユリイカ』(特集 ダダ・シュルレアリスム)p.225 青土社、1981年5月号




 わたしはこのツァラのことばの雰囲気に近い指摘をした人間を思い出す。人間の本性を、戦争における生活体験から看破し、実直な目で綴った坂口安吾である。





 半年のうちに世相は変わった。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかえりみはせじ。若者たちは花と散ったが、同じ彼らが生き残って闇屋となる。ももとせの命ねがわじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女たちも半年の年月のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変わったのではない。人間は元来そういうものであり、変わったのは世相の上皮のことだ。


坂口安吾堕落論』p.88 角川書店、1970年




 万が一、真に人間的な態度というものがあるとして、そのとき、彼/彼女にとって、最も重要な問題は何であろうか。それは「懐疑」に他ならない。徹底的な「懐疑」というものは、自己に留まらず、「他者」におよぶものである、とヴィトゲンシュタインは考え、西洋形而上学の限界、つまり、対象化論理の抱える問題を指摘した。
 柄谷行人は、彼の思想を解説して、このように言う。





 哲学は「内省」からはじまる。ということは、自己対話からはじまるということである。それは、他者が自分と同質であることを前提とすることだ。このことは、プラトン弁証法において典型的にみられる。そこでは、ソクラテスは、相手と「共同で真理を探求する」ようによびかける。プラトン弁証法は対話の体裁をとっているけれども、対話ではない。そこには、他者がいない。


柄谷行人『探求Ⅰ』p.9 講談社、1986年





 ヴィトゲンシュタインの言う「他者」とは、彼がしばしば「外国人」になぞらえるように、意思疎通の機会があらかじめ失われている、あるいはきわめて困難な「他者」である。それは徹底的な「懐疑」を用意するための、条件設定ではあるのだが、この徹底した「懐疑」の実践こそが、哲学のみならず、文学、あるいは人間の生活において、重要なものだとわたしは考える。それは、わたしたちの周りに空気のようにしてある「言葉」にたいする批判的精神、「他者」にたいする批判的精神、「意思疎通」にたいする批判的精神が必要である、ということだ。

 
 ダダは未来派から、そしてシュルレアリスムに至る流れの狭間において、「宣言」を採用したが(そこにはおそらく、1848年の「共産党宣言」、1917年の10月革命の影響が多分にある)、マニフェストの多くは、双方向的な性質のものではなく、一方から他方へと「呼びかけ」「賛同を求める」傾向が強い。それは、もし日本人であれば、選挙の際に政党が掲げる「公約」の有名無実性を経験的に知っているひともいる、ということから言うことができよう。


 日本国における政党の「公約」に対する、やや杜撰な帰納的発想から導かれるものがどれほど確かであるか、という点については保証ができないが、「宣言」の性質はプロパガンダに似た部分がある、と判断できそうだ。というのは、そもそも先に述べた ことば、その発話する行為そのものの戦略性 という観点からすれば当然のことなのだが、「公約」とは、一定の理想を掲げたひとびとが、自らの利を念頭において、その理想の実現への協力を求めることばである。これは、実に指導者が大衆を指導する、といった政治的宣言であろうと、文学的宣言であろうと、「煽動」を帯びていて、意思疎通にたいする「懐疑」(またそれを動機として導かれる検討)が薄いと言わざるを得ないし、その一方性を拭い去ることはできない。誰かに何らかの影響を与えようとして発されることばとは、このようなものである。


 アンドレ・ブルトンを裁判長に行われたバレス裁判の興味深さは、静的な「宣言」よりも、より動的な「裁判」という状況の記録が遺した、ダダの姿にある。それはいろいろな絵の具の混ざったふしぎなパレットであり、ツァラはそこで心中に青白い気炎を上げているようだ。この裁判における彼の役割はほとんど機知に富んだ「扇動者」である。「裁判」という場所で、手垢にまみれたことばの蘇生を実践しているということを検討すると、彼の残したことばの生な感覚、生な姿勢が、今ここに現れてくるように思えるのである。


(4-1につづく)