対談:エキゾティシズムと「距離」の問題



I 先ほど、「他者」としての「場所」であるエキゾティシズム、「他者」としての「肉体」であるエロティシズム、「自意識」にたいする「他者」としての「無意識」という話をしましたけれど、エキゾティシズムにはもうひとつの要素があると思います。それは「他者」としての「時間」という要素ですね。『南米のエリザベス・テイラー』を聴かせて頂いてわたしは、「時間」を「時間」が内包するような意識、というものを感じたのですけど、菊地さんは音楽における「時間」の問題をどう捉えていらっしゃいますか。


K それはぼくにとっては完全に音楽の構造分析をめぐる問題になってしまいますね。きょうはこんな場所に来ていて、(藝大の)学生さんも多いと思うので、話してしまいますけど、エキゾチックにも二種類あると思うのですね。まずこれを聴いてください。


デューク・エリントン極東組曲』から「旅行者の目(Tourist Point of View)」かかる〕


はい。デューク・エリントンですね。みなさん、この曲は何をテーマにして描かれていると思いますか。実は、これ日本なんですね。これを聴くと、どこが日本なのか、という印象がします(笑)。彼は1930年代に全盛期を迎えた人で、この作品を作った1966年、このころにはもう現役感は全然ないです。当時、エリントンは国務省に派遣されて音楽親善大使として世界中をツアーして回ったんですが、そのとき日本にも来ているんですね。この曲を聴いてわかることは、デュークは日本に来ていろいろ小唄、端唄など聴いたと言われているんですけど、彼はまったく「聴いて」いないですね。自分の頭の中にある、妄想、それだけに頼って曲を作っています。アームチェア・トラベラー、妄想派エキゾチストの代表がこの、デューク・エリントンです。これに対して、アカデミズムには、バルトーク(・ベーラ)というひとがいますね。彼は東欧の民謡を採集して回って、それを作曲にいかしていくといういわば採集派エキゾチストの頭目です。ぼくにとってはぜんぜんエキゾティックじゃない音楽ですけどね。さて、もう1曲、聴いてください。


〔マチート『アフロ・キューバンジャズ組曲』かかる〕


はい、これ、このリズムを聴くとこの音楽がどこの国のものか直ぐに分かりますね。これはキューバの音楽です。先ほどのエリントンの音楽、幼児的と言ってもいい妄想でつくられた曲と比べると、この複雑なリズムの再現力というか、凄いですね。しかし、ちっともエキゾティックではない。キューバの音楽をそのままやっているという感じがする。エキゾティシズムには「距離」の問題というのがあります。これは、「視点」の問題と言ってもいい。いまおかけしたエリントンと、マチート、両方とも日本に入ると「どちらもなんとなくエキゾティック」な音楽として捉えられてしまうのですね。

都市音楽と民族音楽



K 民族音楽の特徴として、そのリズムに常に「訛り」があるということが挙げられます。アルゼンチン・タンゴにしても、不思議だと思ったのは、彼らはパーカッションをまったく使わずひざの上に乗せたバンドネオンだけでうねりのあるリズムを作っていくということですね。この「訛り」。「訛り」というのも、西洋音楽の概念なわけですけど、その「訛り」を採譜化していくということが、音楽の構造分析ですね。ぼくの考える21世紀の
エキゾティシズムというのは、この採譜化された「訛り」と、個人的な幼児期の妄想のハイブリッドされたものという感じです。


I なるほど。


K 構造主義的にやるしかないんですね。ぼくは都市音楽しか作れないんで。ワールドミュージックにおける問題というのは、カネにあかせて、現地のミュージシャンをババッと連れてきて、その音楽の構造も分からないのにそのまま録音してパッケージングしてしまう、ということですね。それは自分たちのものじゃないんだから、分析しようというのがぼくのスタンスです。まあ『南米』の「訛り」にしてもこれは、ぼくの考えた架空のものなんですが。


〔同作から「京マチ子の夜」がかかり、スクリーンに「ブエノスアイレスにて(仮)」と書かれた手書きの譜面が映し出される。菊地氏による解説〕

音楽の具象と抽象



I わたしは『南米』を聴いて、これは具象画であるな、新具象であるという印象を強く抱いたんですが、菊地さんは、現代の大衆音楽というものは、どういった方向に進んでいると考えてらっしゃいますか。


K 今、音楽が抽象に向かっているという感じは凄くありますね。音楽が「音」に立ち戻るというところから、電子音楽が生まれて、現代の音響派みたいなムーブメントまで生まれているのですけど、それもさすがに飽和状態で、閉塞状況にあると言っていいと思います。


I はい。具象絵画というのも、メディアとテクノロジーの発展に伴って、人間の知覚の細かいコードを再構成していくという歴史がありますね。『南米のエリザベス・テイラー』という作品を聴いたときにも、最初はオーソドックスなジャズに聴こえたのですが、なんども聴いていくと次第にそのフォルムが変わっていくような、プリズムのような音楽だと感じました。

「時間」に注目し、「世界」を感じること



I 今、わたしは「時間」について考えることが、政治や経済、この社会について考えることの何よりも重要だと思うんですね。


K まったく同感ですね。クロノス的な「時間」、過去、現在、未来という直線的な「時間」は静的な秩序として、われわれの生の中に完全に組み込まれていますね。


I はい。メランコリーと(時間の)スピードに対抗する方法として、人生の時間を自分でコントロールすることが必要だと思うんですね。わたしは今、『陶酔論』という作品を書いているんです。ここにいらっしゃる皆さんはあんまりご存知ではないかと思いますが、ギリシア神話に出てくる神としての時間というのが三つあります。ひとつはクロノスです。クロノスは自分の子供を貪り食ってしまう神です。これは、いわゆるわたしたちが今生きている「時間」というものを象徴しているわけですね。他にアイオンと、カイロスという時間の神がふたりいます。アイオンは「純粋時間」を指し示す存在ですね。カイロスは「好機(チャンス)」というものを示しています。このアイオンとカイロスの象徴する時間を取り入れることで、わたしたちは生々しく生きる感覚を再獲得できるのではないか、というような話なのですね。


K すばらしいお話ですね。大変楽しみです。


I 著作の中で、他には「旅」と「他者」の獲得、「流浪」と「全体的な思考」の関係についても触れています。


K なるほど。ルーツ(roots)という思考、問題がありますね。ぼくは(最近)銚子に行って改めて思ったんですけど、失われたからこそ思い出すんですね。過去の記憶の中でのあの街は、汚いです。汚いものでしょう。しかし、それが失われるとき、失われたときに生まれる新しい状況というものがありますね。


I まさに、わたしの今テーマとしている「陶酔」というのが、その状況に符合するところがあります。英語では陶酔をecstasyといいますね。このエクス、という音(接頭辞)は、外(部)に出るという意味なのですね。陶酔とは、今おかれている状況から、外に出ることであると。


K なるほど。よく分かります。


I 最後になりますが、エロティシズムも、エキゾティシズムも世界の感じ方であって、それを身体化させていくということが必要ですね。


K そうですね。最近「スローライフ」などと言って、持て囃していますが、ひとが時間を早く感じるか、遅く感じるかは相対的なものですからね。「スローライフ」という考え方は、しょせん「忙しさ」から、「早く感じること」から延命するひとつの策に過ぎません。抜本的な問題解決には至りませんね。


I はい(進行役田口氏の様子を窺って)あー、もう時間でしょ?あ、時間あるんだ。それじゃあ、何?質疑応答か。質疑応答ですね。


K では、このあと質疑応答に入りたいと思います。ありがとうございました。


18時35分ころから始まった対談は19時20分ころいったん終了。その後約40分ほど質疑応答がありお開きとなりました。

感想


  • 5年前に聴いた、エキゾティシズムに関する細野晴臣とデイヴィッド・トゥープの対談(これもかつて対談を再構成しました)を思い出しました。興味がおありの方はこちらをどうぞ→(http://frostedglass.hp.infoseek.co.jp/report/exotica.htm) このときは司会だったピーター・バラカンがエキゾティシズムは「Alternative Way of Life」であるみたいなことを言っていたのが印象的でした。今回の菊地伊藤両氏による対談も、その指し示す方向は同じように感じました。
  • で、少々脱線しますがそういやミスター・トゥープの『Exotica』は細野さんの監訳で朝日新聞社から発行されるという話だったんだけど、これは頓挫してしまったみたいですね。これを機会に、原著で読んでみようかしら。
  • 質疑応答で印象的だった菊地発言その1:「サトエリの尻は好きですよ。サトエリのお尻は好きです!」彼女は脚もすばらしいですよね...。エロくて、すてきです。。。
  • アルベール・エルバスによる「ランバン」のショウ@パリコレクションのグルーヴが『デギュスタシオン・ア・ジャズ』と酷似しているというエピソードもありました。菊地さんの発言:「ランバンは本当にすばらしい。ぼくはこれ見ると勃起してしまうんですよ(笑)。あのね、ランバンのモデルさんがかわいいからとか、そういうことじゃないですよ」
  • 菊地発言その3:言語においては、それがエロティックでないという状況を探すほうが大変で、むしろエロティックでないときがほとんどないと言っていい。
  • この講義の翌日、菊地氏の東大講義を『情熱大陸』(東京放送)で見たこともあり、ぜひ教師━生徒の関係になってみたいなと思いました。けれども今も、思えば書籍やCDや各種メディア(ラジオは聴いていないし、雑誌はほとんどチェックしない/できないけど)を通じて、菊地氏から通信教育を受けているようなものだと思いました。
  • お読みいただければお分かりになるように、非常に刺激的な内容でした。対談を再構成するに当たっては、メモをとって、記憶を頼りに肉付けしたため、事実誤認があるかもしれません。すべての発言における文責は小生にある旨、念のため記しておきます。また、文中では一部敬称を略しました。



(おわり)