今までの音楽活動を振り返る
- 1963年(昭和38年)生まれ。今、43歳。最近はアンチエイジングが流行だけど、なかなか大人になれない(笑)。
- よく、「今、年は幾つなのか」と聞かれる。写真を見ても、実物を見ても良くわからないらしい。
- 38歳のとき、駅で財布を落として、年配の掃除夫に「ぼく、ぼく」と呼びかけられたというエピソードがある。
- 1983年(20歳) 1963年生まれなので、ちょうど成人した。
日本は未曾有の好景気で、目を瞑って手を伸ばせば仕事にぶつかるという感じ。ソニーからウォークマンが発売され、CDが普及し、MIDI(規格)が世に出た。ブッシュ小泉時代が終わろうとしているが、当時は今よりもずっとおもしろいレーガノミックス(レーガン/中曽根)の時代。
当時は、今で言うグラビアアイドルが1枚CDを出すと全国ツアーをするような時代で、お金を使う暇が無く、預金通帳の残高がどんどん増えていくというような感じ。当時の年収と今の年収が同じくらいなんじゃないかと錯覚するくらい。年間300日以上ツアーに出ていることもあった。仕事がないということはなかった。今の時代に自分が20歳くらいだったら「何やりたいかわかんねー」といいながら、ぶらぶらしているかもしれない。
江口洋介のバックバンドをやった。グッチ裕三とビジー4というバンドをやっていたウガンダのファンクバンドのメンバーだったことがあって、「ひょうきん族」に出演したことがある。グッチ裕三は60年代のソウルをファルセットで歌う感じで、ウガンダはもっとファンキーな感じ。彼らの音楽性の違いで、ビジー4は解散に至った(笑)
- 1985年(22歳)「アクエリアス」でグラミー賞を受賞したことで有名なフィフス・ディメンションのバックバンドのサキソフォン奏者としてプロデビュー。
当時、ジャズ学校の生徒で、学校のスタッフに「行け」と言われて行った。
フィフスは60年代が全盛期。80年代は「昔の名前で出ています」というか、要は落ちぶれて、世界各地の米軍基地を回るツアー(ドサ回り)をやっていた。フィリピンの基地から横須賀に移動する際に、バックバンドのサキソフォン奏者が逮捕されて、米国に強制送還され、その代役としてサックスを吹いたのが、お金をもらった仕事の最初。ギャラは1万5千円(当時の1万円札は聖徳太子)。日本がかつてない好景気に沸いていて1万5千円という金額はたいしたこと無かったが、好きな仕事で初めてもらえたお金はうれしくて、しばらくもらったお札は使わなかった。
♪山下洋輔「My Grandfathers Clock」*1
「おじいさんの古時計」は、和訳された際に「おじいさんが所有する時計」(My grandfather's clock)と誤訳されてしまったが、本来は、「グランドファーザーズ・クロック」というスタイルの大きな時計が存在するというトリビアがある。「My Grandfathers Clock」は、自分から山下洋輔に「これやりましょう」と持ちかけたが、 持ちかけた理由については人の生き死にが関ってくるエピソードのなるので割愛する(笑)。山下洋輔とは最近雑誌の対談で「平井堅が「古時計」をやった時はビックリした。俺たちのほうがずっと早かったぜ」という話題で盛り上がった。
- 90年代初頭、バックバンドでツアーを回るサックス奏者を止める。
先鋭的な音楽性が評価されたが、売れなかったティポグラフィカ(天才ギタリスト今堀恒雄のバンド)とグラウンドゼロ(映画音楽で知られる大友良英のバンド)にそれぞれサックス奏者として参加。他人のバンドにサックス奏者として加入して主に活動していた。グラウンドゼロは外国で評価が高く、海外ツアーでいろいろな国に行ったので、サッカーのワールドカップで出場する国は大体知っていて、どの国を応援すればよいのかわからなくなる(笑)
♪グラウンドゼロ「男たちの挽歌+小さな願い」*2
- この頃の自分のイメージはバリバリ力強く吹きまくるサックス奏者という感じ。「バブル崩壊への咆哮」か(笑)
サックスを吹く一方、女の子が歌う歌を作っていた。 当時自分はリーダーではなく、3人組。ユニットで、誰がリーダー、というのは無かった。結局、このときのメンツはバラバラになってしまい、名前だけが残った。
- 双子座のAB型なので何かひとつだけに集中しているということができない
1999年、36歳。
- 家電メーカーに勤めていた岩澤瞳(現在は引退)を抜擢して、スパンクハッピーを再始動。岩澤瞳は今で言う「萌え声」「キター」という感じの、一部の人々に強く訴えかける声(笑)。アルバム2枚、シングル3枚をリリースし、現在は、活動を終了(休止)している。
- 確か1985年発表のオリヴィア-ニュートン-ジョンの「フィジカル」のカバー。このアルバムから(ママ)歌を歌い始めた。若い頃は「俺の歌はサックスが歌うんだ」なんて思っていたけれども、幼い頃から歌を歌うのは大好きで、ついに本当に歌いだしてしまった(笑)。活動停止中と言ったけれども、今年の10月に元ピチカートファイブの野宮真貴を迎えて、東京と京都と2回だけライブをやる予定。
- デートコースペンタゴン・ロイヤルガーデン(以降DCPRGと略記)結成。この年は70年代からずっと囁かれていた「ノストラダムスの大予言」の年だったが、その年になって「21世紀はいい調子なんじゃない」というような楽観的な感じが一瞬あった。2000年くらいまでのほんの一時期だと思うけど。そんな中、自分は冷や汗をかいているような気分で、「そんなにうまくいくはずない」と思っていた。不安神経症の発症は2002年だけれども、その兆候のようなものはこの時すでに存在していた。
- 「戦争が来る、しかも日本に」という不安神経症特有の無根拠な不安を創作の動機として昇華させて始めたプロジェクトがDCPRGで、精神分析治療と整体(内気功)で治療を続けながら、活動を続けるうちに、「音楽を聴いてダンスすることが、人間の心身に治癒効果がある」という確信を得た。それがなぜかという決定的な理由付けはできないけれども、電車に乗るのが怖くても、ライブ会場に行くと2時間でも、3時間でも元気に演奏できてしまうという個人的な経験から得た確信である。
幼少期/青年期の音楽体験
- 青春時代に好きだった曲、好きだったアイドルなんていうのは良く訊かれる。一番最初に買ったレコードはフォーク・クルセーダーズの「帰ってきたヨッパライ」という曲。この曲は当時大ヒットした。
♪フォーク・クルセーダーズ「帰って来たヨッバライ」*1
当時は皆この曲を普通に聴いて喜んでいたけれど、今聴くと、なんともいえないヤバさがあることに気づく。この曲の前衛性は色褪せていないし、天国に行ったら「神様に帰れ」といわれて、蘇ってしまうっていうところもすごい。このシングルは1968年にリリースされたので、当時5歳だった自分で買えたわけではなく、16歳上の兄(菊地秀行)にねだって、買ってきてもらった。
- 物心付いたとき、兄はすでに上京しており、主の居ない部屋があった。館長の居ない透明なミュージアムという感じ、この番組名にこじつけていうわけではないけど、兄の部屋にはそんな感じがあった。
当時の大学生が上京して住めるのは3畳一間のアパートしかないので、オタク第1世代の兄の大量のコレクションのうち、ほとんどが、実家に残されていた。天井にはマリリン・モンローのポスターが貼られていたのを覚えている。3人娘(園まり…兄が好きだった)、クレイジーキャッツ、西部劇。幼稚園くらいから、小学生くらいまで、意味もわからず兄の部屋でそのコレクションに浸るのが至福のひと時だった。友達がドリフターズ、って言っているときに、ぼくマヒナスターズみたいな(笑)。当時からムード歌謡が大好きで、それが今の自分のベーシックな部分に根付いている。ソロアルバムにもそれが現れていると思う。青春期で無くって幼少期の話になってしまった(笑)。
♪園まり「逢いたくて逢いたくて」
- 青春期。ジャズとの出会いというのもよく聞かれることなのだけど、明確に覚えていない。ただ、映画が好きだったので、50年代仏ヌーベルバーグでよくジャズが使われていたから、そこから入ったのだろう。ジャズジャイアンツのうちのひとり、マイルズ・デイヴィスが『死刑台のエレベーター』の音楽をやったりしていた。演歌が嫌いで、ラウンジ風のムード歌謡が大好きで、ジャズにはすっと入っていけた。スーツを着てクールでシックにアコースティックジャズを演奏するという時代から、アフロヘアで、ヒッピーみたいなファッションに、ロックやファンクの影響を取り入れていったいわゆるエレクトリック・マイルズの時期、DCPRGの音楽にも大きな影響を与えたマイルズ・デイヴィスの'72年の作品『On The Corner』から「On The Corner」を聴きましょう。
♪マイルズ・デイヴィス「オン・ザ・コーナー」*2
20:30頃。ゲストとしてUA登場。
- プロモーションでこのアルバムがどうやって作られたかという話を20回くらいしている。そろそろエピソードを捏造しても良い頃(笑)。でもそういうわけにもいかない。
- UAと菊地の出会いは、2003年。UAが教育テレビで出演していた『ドレミノテレビ』は2003年に1年本放送。その後、2年間再放送された(現在はDVD化されている)。「いっしゅうかん」のアレンジを菊地が行い、レコーディングもNHKのスタジオで行った。
- 実際に対面したのは、ある雑誌の企画でUAのアルバム『泥棒』のリリースにあわせて招待客のみの限定ライブがブルーノート東京で開催された際、UAの楽曲をジャズアレンジで演奏することになり、そのバックバンドのサックス奏者として。そこでUAの魅力に惚れ込んだ菊地が、当時制作を進めていた『Degustation A Jazz』に「1曲歌ってください」とラブコールを送った。同時期、UAの『SUN』に自分が編曲とサックス演奏で参加することが決まったが、どちらが先だったか後だったかはっきり覚えていない。
♪UA「忘我」
- アルバムを作ろう、と言い出したのは自分。UAの『SUN』がリリースされたころは、UAはツアーをやっており(『la』というライブアルバムになっている)、(菊地成孔)クインテット・ライブ・ダブも並行してツアーをやっていた。「スタンダードジャズをやっていると(調子の悪いのが)治る」と当時菊地が話していたとのこと(UA談)。(京大)西部講堂*1は雰囲気が良かった。「憧れの場所だったから、あそこでライブできてとてもうれしかった。演奏中汗がずっと生まれている感じでとても良かった」(UA談)。ツアー中のUAが横抜けして、クインテット・ライブ・ダブの演奏に参加して、そのライブの頃から「(菊地の)ソロアルバムにUAが参加」という話はもう出ていたが、それから1年くらい構想自体がペンディングされていた。その時「スタンダードは良いね」という話しはしていた。「2人でコラボろう」「(『ドレミノテレビ』でやっていた)童謡もある種のスタンダード。スタンダードジャズをやりたいというUAのオーラはその頃から感じていた」(菊地談)。
- 2人のコラボレーションアルバムを制作するにあたって、スタンダード (ジャズ)を録音することは決めていたが、スタンダードは膨大な数がある(俗に『1001』と呼ばれるスタンダードブックがあって、そのうち、よく演奏される曲は200曲くらい。50年代、60年代、70年代、80年代とそれぞれの年代に、それぞれのミュージシャンが残したスタンダードが存在する)。少なく見積もって100曲のうちから(アルバム収録曲12曲のうち)6曲を選ぶのは至難の業。「UAがこれ歌ったらよいだろうな〜」と思う15〜6曲くらいスタンダードを入れたCD-Rを菊地が作って、UAに手渡し、その中から3曲をUAが選んだ。
♪ジュディ・ガーランド「オーバー・ザ・レインボウ」*2
- 1937年録音、1939年の映画『オズの魔法使』のサウンドトラックに使われたジュディー・ガーランドの「虹の彼方へ」。「リズムをちゃんと聴いたの初めて。マイケル・ジャクソンが出演していた黒人版の『オズ』*3をテレビで見たことしかなかったから、とっても驚いた」(UA談)。「この時代の、黒人がやっていないポピュラー音楽としてのジャズのリズムはこんなもの」「『ピンクフラミンゴ [DVD]』のジョン・ウォーターズが最後の結末(「家族は最高」)さえなければ、『オズの魔法使』はアメリカ映画史上最高の映画だと言った」(菊地談)。
- 20年前、音楽学校の宿題で「有名な曲のコード進行を付け替える」というのがあって、それで「虹の彼方へ」を付け替えてみたらとても良い評価をもらった。そのとき、一音消えたら、また始まる、という今回録音した利き酒のような、懐石(料理)のような構成も考えていた。20年前に書いたスコアを使った。
♪UA×菊地成孔「オーバー・ザ・レインボウ」
- UA×菊地版の「オーバー・ザ・レインボウ」は全部で11分ほどある。自分で作ったものをあんまり聴かないので、こうやって聴くと興奮しちゃう。Healingを超えたcureじゃないか。サビに入る前にフェイドアウトしたことを受けて→新作を作るといつもラジオサイズ用のバージョンを作らなくちゃならない。3分から3分半くらいの長さ。
- 次に聴くのは戦時中にビバップの立役者としてチャーリー・パーカーと一緒に活躍したディジー・ガレスピー作曲の「チュニジアの夜」。UAはディジーの曲を聴いたことはなかったが、なぜか曲を知っていたとのこと。1945年のディジー・ガレスピー・ビッグ・バンドの録音。これは第二次大戦が終結した年に録音されたもの。先ほど流した「オーバー・ザ・レインボウ」は1939年の映画。この年、第二次大戦が始まった。
♪ディジー・ガレスピー「ア・ナイト・イン・チュニジア」*4
- UAの感想:「主旋律に対する「なんでやねん」がおもしろい」→それを受けて菊地:「黒人音楽でいう「コール&レスポンス」。黒人奴隷のワークソングの中で、「今日の仕事はつらいよな」「そうでもないよ」というようなやりとりがあって生まれたと言われている。スウィングジャズなんかは、みんなこの「なんでやねん」が欠かせない」「ダンスホールのための音楽というか、JumpやJiveといわれるものに近い演奏」。
- UAの感想:「もう随分前のことのような気がする。でもこの曲の「それ以前」と「それ以降」というのが存在する」「結局8テイク録音して、1番最初の1テイク目を使った」→菊地:「UAは納得するまで何度も歌う」→UA:「結局1テイク目になることが多い。1テイク目だ、と決めるために何回も歌っている(笑)」
*1:2004年7月に行われた菊地成孔クインテットライブダブ+UAのライブパフォーマンスのこと
*2:アルバム『ベスト・オブ・ジュディ・ガーランド』収録
*4:アルバム『ケン・バーンズ・ジャズ?20世紀のジャズの宝物 The Very Best ofディジー・ガレスピー』収録
アフリカンリズムについて→菊地:「アフリカには4拍子と3拍子しかない」「変拍子というのは、ヨーロッパのもの。アフリカにあるのは、変拍子ではない」*1
- 「4拍子と3拍子とどっちも取れるようになると人生が少し楽しくなる」「いっぱいリズムが聴こえてくるようなリズムがポリリズム」「どこが頭でも周期をとれるのがポリリズム」「もう少し複雑になると5拍子の曲というのがある」
- 「5拍子と4拍子で取ることができる。DCPRGはアフリカのリズムをファンクミュージックに翻訳しているようなところがある」「5拍子と4拍子のポリリズムというのは、『cure jazz』録音時の「蜜と蠍」という曲もそうだけれど、この曲はレコーディングの最後の曲だった。
- UAの今後の活動予定:UA×菊地でフジロック出演、その後東名阪ツアー、エゾロック。ソロアルバムは9月からレコーディング開始し、来年リリース予定。シングルも出す。
*1:アルバム『LES PERCUSSIONS DE GUINEE VOL.2』(品番:92586-2、Musuque de mondo)収録
*2:アルバム『REPORT FROM IRON MOUNTAIN』収録
21:30頃。UAが退席。
菊地:「人に歴史ありとは言うが、私も43歳になった。2004年、40歳。ソロアルバム、いよいよリーダーアルバムを作らなくちゃと思って、『Degustation a Jazz』というアルバムを作った。これは2003年にスペインのあるレストランで始まった「デギュスタシオン・コース」というスタイルが、全世界の料理マスコミに騒がれて、それにヒントを得たもの。音楽で、「デギュスタシオン・コース」をやろう、という動機で制作した。フランス料理は通常、オードブル(前菜)、アントレ(主菜)、デセール(デザート)という構成だけれども、一口ずつのディッシュが64皿〜68皿続くという、料理界のポストモダン。初のソロアルバムということで、歌のある曲もやった。その曲もとても短く編集して収録したので、せっかくのお祝いとはいえ、もったいない。歌のあるトラックだけ集めてミニアルバムを出した→『CHANSONS EXTRAITES DE DEGUSTATION A JAZZ』
♪「アルト・サックス、ウッドベース、ドラムス、 ハープによる無調クールジャズ風」
♪「プリペアード・アコースティック・ギターとアルト・サックスによる無調ヴォサ・ノヴァ」
♪「色彩のサンバ」*1
- 2枚目のソロアルバム:『南米のエリザベス・テーラー』。エスクァイア誌の南米特集*2で、南米なのに住人の98パーセントが白人というアルゼンチンはブエノスアイレスに滞在し、日本から最も遠い場所で制作の動機を得た。フェイク・アルゼンチン・タンゴを作ろうと思った。子供のころ好きだったムード歌謡のテイストが反映されている。『南米のエリザベス・テイラー』というのは、全世界に二流の女優(香港のエリザベス・テイラー、東京のエリザベス・テイラーetc)というものが存在したであろうという妄想に基づいたもので、アルゼンチンにいるであろう幻の『南米のエリザベス・テイラー』を捜し求める作品。