菊地成孔篇 / 菊地成孔セレクション ロックとフォークのない20世紀 (学習研究社)

200CD 菊地成孔セレクション―ロックとフォークのない20世紀 (学研200音楽書シリーズ)


 読んでいてとてもおもしろいな、そして鋭いな、と思う指摘があったので、そこを少し抜き出してみたいと思う。





菊地 フィットネスみたいな。そうか、確かにね。甘みってことでいうと、50年代の名曲に「シュガー」ってのがあんのよ。「お砂糖は私のlifeに欠かせない」っていうわけね、失恋したら砂糖を舐める(笑)、プロムの女王に落ちたら砂糖を舐める、みたいなさ。砂糖を舐めればご機嫌、砂糖さえあれば大丈夫って歌詞なのよ。それが80年代に放送禁止になるわけ。要するにファット追放、白糖追放の流れの中で。甘みはダメって、何かすごいヒステリックに行くじゃない。油をなくして。


(太っていることが)醜いと思ってるのかな。今のヒップホップカルチャーのセクシュアリティの平均っていうのも、極端に上がっちゃってますよね。全部ソフトポルノっていうか。


僕から見ると不感症にも見えるんだけど、ソフトポルノ紛いのエロでもエロじゃなくて、それがむしろ普通っていう、そこでフェミニズムみたいなのを押し出すつもりのエロ、みたいなことになっちゃってるじゃないですか。エロだけど甘くない、エロだけど勇ましいわけよ。ブラックじゃないけど、ブリトニー・スピアーズとか、もうエロDVDじゃないですか(笑)、でも勇ましいイメージでしょ。マゾにはいいだろうけど。


エロが自分のためにあるみたいな。だけどレズビアニズムでもない。エロがもう、キャリアとか、強みみたいな感じになってて、基礎装備がもうエロいってところまで行っちゃってるよね。


p.51〜52





 「フェミニズムみたいなのを押し出すつもりのエロ」という指摘が興味深い。そのルーツは米国黒人の大衆文化に求められると同時に、90年代には、白人のスターとしてマドンナがいて、そこにもまた求められるような気がする(パワーとしては白人のフェミニズムよりも黒人のフェミニズムというのが、より強い抑圧の反発として社会への影響力を持っている気がするが、米国の社会状況に疎い上、それが服飾産業とどう結びついているかは知らない)。
 欧米のファッションの影響を強く受けていると考えられる日本にも、「エロ」を「クール」(かっこいい)の文脈に移し変えようという政治性を感じるものがないでもない。例えば、立て看板などでも大きく広告している「ピーチジョン」が、わたしにとっては印象的だ。おそらく、そこまではっきりとコンセプトを持って企業活動を行っているわけではないのだろうが、結果的に欧米の若年女性向けフェミニズム的ファッションを輸入しているわけだ。営利企業は利潤ありきだから、社会改良的な思想どうこうよりも、売れるか売れないか、つまりマーケティング戦略の結果かも知れない。だとすれば、そこにある思想は利潤の追求、資本主義に他ならないということになる。


 おおよそ流行と名のつくものには鈍感な傾向がわたしにはあると思っているが、日本女性のファッションが劇的に変わったなあ、と思ったのは、はっきりと特定できないが、90年代後半だったような気がする。キャミソール文化の登場。「肩紐を見せてOK」というところで、エロは女性たちのものになった。「男に見られるエロから女から見せるエロ」というスローガンが建前である部分ももちろんあるに違いないが、「ああ、変わったなあ」という気がしなくもなかった。キャミソールを重ね着して、街を歩くというスタイルは日本人がはやらせたものなのだろうか。わたしはファッション史については無知に近いので、その起源がどこにあるのか知らないが、調べてみるとなかなか興味深い現象を読み取れるのではないかと思う。
 女性が肩を出したり、乳房を放り出すような格好で闊歩する按配と、何がエロティックかという問題はなかなか興味深い。こういう分野に関する社会学的な研究というのは行われているのだろうか。気にならないでもない。あまりにもフェミニスティックでなく、またあまりにも男根主義的でもない、中立的なものが読んでみたいなとぼんやり思った。